レハール 2

こんにちは。さて、前回の続き、そう  レハールはブラームスとドボルザークにその才能を認められ、その後研鑽を積み
作曲家としてのスタートを切ります。

プラハコンセルヴァトワールでは、彼はバイオリンと作曲法を学んでいましたが、彼に作曲法を教えていたドボルザークの強い助言で
作曲家の道を歩むことになったのです。
こうしてみると、ドボルザークに感謝の気持ちでいっぱいになりますね?

さてお話しを元に戻しましょう。
レハール26歳の時に、自作のオペラ「ククシュカ」をライプツィヒで上演しますが、これが残念なことに全く受けず、「ああ、僕はオペラには向いていないんだ」と、綺麗サッパリと諦めオペレッタに方向転換をします。
そして、目指すはウィーン!

1814年の「ウィーン会議 」の頃からウィンナワルツは絶頂期を迎え、ウィーン=ワルツ の図式は世界中に広まっていました。
「ハンガリー特有の東洋的で官能的なメロディーに、ウィーンの洗練された音楽とミックスすれば、新しい音楽ができる」
と、レハールも思ったかもしれません。

こうして  1902年に念願のテアターアンデア ヴィーンの指揮者になり、自作のオペレッタ「ウィーンの女達」を上演し、ウィーンの女性達のハートを掴みます。

さらにその年にはウィーン会議で名を馳せたメッテルニヒの孫、パウリーネ・フォン・メッテルニヒの依頼により、彼の
出世作でもある   管弦楽曲 ワルツ「金と銀」を作曲。
大好評を博します。

そしてその3年後に ついにレハールの音楽が開花し、あの爆発的人気を誇る「メリー・ウィドー」が誕生します。
ウィーンっ子達は 「メリー・ウィドー」のメロディーに酔いしれ、レハールはオペレッタの頂点に立ちます。

このオペレッタのファンの中には意外や意外。  お堅いウィーンの作曲家もいましたが、そのお話はまた次回にいたしますね。
                       
                                                                                          それでは また。