シューベルト 1


        私がウィーンに着くと、必ずと言っていいほど一番始めに行くところ、それがシューベルトの生家です。                        

(勿論コンディトライを除いてですが…)。


ヴォティーフキルヒェが目印のショッテントアー駅から市電に乗り、しばらくすると埃っぽくて,昔のウィーンを思わせる街並みに入ってきます。

「次は カニジウスガッセ」…と、間延びしたウィーン訛りのアナウンスに押しだされるように下車し、目指すはヌースドルファーシュトラーセ54番地。そう、シューベルトの生まれた家です

ここに来てようやく ああウィーンに戻ってきたな、とホッとします。


  ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンを始め、多くの音楽家達が活躍したウィーン。その中でもシューベルトだけが生粋のウイーンっ子。
そして誰よりもウィーンを愛したシューベルト
そんなところに私は惹きつけられているのかもしれません。


フランツ・ペーター・シューベルト。ここでは  彼の友人達や母エリザベートが呼んでいたようにフランツル と呼びますね。
(ちなみに彼のニックネームは「きのこ」  。これに関しては後ほど。)


1797年 1月31日に、自身の学校の校長であった父 フランツ・テオドール・シューベルトと、結婚前までは、とあるウィーン人の家庭の料理人をしていた母エリザベートの12番目の子としてこの世に生を受け、母の愛を一身に受けて育ちます。


5歳の時から 父からはバイオリンを、
そして兄のイグナツからはピアノを教わりますが、

みるみる才能を発揮し、ついには二人の手に余るほどになります。父親はフランツルが洗礼を受けたリヒテンタール教会の聖歌隊指導者、ミヒャエル・ホルツァーに彼を委ねますが、ここでも 他の少年たちとは比べようもないほどの才能を見せつけます。

そしてフランツルが10才になったある日のこと、父親はホルツァーから宮廷礼拝堂聖歌隊(現ウィーン少年合唱団)に欠員が出たことを知らされ、彼を受験させることを強く勧められます。


彼は入団するのに十分の才能と美声を持っていましたが、父は受験生の親にありがちな心境だったのでしょう。
息子を連れて、当時ウィーンの音楽界に絶大な影響力と権力を持った、
あのアントニオ・サリエリの元を訪ねます。

そう!  あのサリエリ先生が再びここで登場です。

まあ、ここで先生ご自慢のあのお菓子「ビーナスの乳首」が出されたかどうかはわかりませんが、サリエリは、ちょっとはにかみ屋で才能溢れるフランツルをとても気に入ります。


ここに 入団出来るということは、音楽教育だけでなく、全て最高の教育をも受けられることを意味し、将来的にもかなり優位になるわけです。

ただし学校生活は かなり厳しいものだったようです。


教育熱心な父親は 音楽愛好家でもありましたが、彼を音楽家にする気は毛頭なく、自分の学校の後を兄と継いで堅実な教師の道を進んで欲しい、と
常に思っていました。

そう、この辺はステージパパであったモーツァルトの父親とはちょっと

違いますね。

 

お話を元に戻しましょう。無事試験に合格したフランツルですが喜びもつかの間。その翌週には寄宿舎に入舎しなければなりませんでした。   それは最愛の母との別れを意味するものでした。

入舎当日 、寄宿舎までの遠い道のりを母の手を固く握りしめながら歩くフランツル  。彼はエリザベートを見上げ 「お母さん、僕 ずっとお母さんのそばにいたい」と、目に大粒の涙を浮かべて訴えます。「だってお母さんが悲しい時にだれが歌うの? 」 前にもお話した通り、エリザベートはフランツルを溺愛していました。

 やさしい澄みきったフランツルの歌声は、エリザベートの心を癒やしてくれました。  嬉しい時、悲しい時には必ずフランツルに歌ってもらうのが常でした。


この別れの時、エリザベートの心も張り裂けんばかりだったことでしょう。

でも、意を決した彼女はフランツルの前にひざまずき、両手で彼の頰を優しく包み込み「良い子でね。  一生懸命に勉強をするのよ。  お前が何処で歌っていても、

私には聞こえるから。   さようなら、フランツル  私の宝物!」

そう言うと、エリザベートはもう一度彼を力一杯彼を抱きしめ、足早に去って行きました。

彼は母の後ろ姿が見えなくなるまで何度も何度も振り返りながら、寄宿舎の階段を一段、一段上って行きました。そして大きな扉を開け、建物の中に入った時には  出迎えてくれた神父様の顔が涙で歪んで見えたほどでした。


さて、新しい世界に羽ばたいたフランツルは、メキメキと頭角をあらわします。

ここでは学問だけではなく、生涯彼を支え続けてくれた友人達と知り合います。

この寄宿舎にはウィーン大学の学生達もいたため、フランツルにとっても

様々な年齢層の彼らの知識を得る格好の場となりました。

その中でも特に親しくなったのは彼よりも9歳年上のヨーゼフ・フォン・シュパウン。

彼らは フランツルの作曲した作品に驚嘆し、「ねえ、これは君が作曲したもの?ー

すごい !  僕たちはモーツァルトかブルッフかと思ったよ. シュヴァンメルル」


(ここでちょっと寄り道を。「シュヴァンメルル」…これが彼のニックネーム「きのこ」です。   フランツル  は小柄ながらがっしりとした体格で、髪は巻き毛だったため、こんなニックネームがついた様です。)


彼にとっては自分の曲を披露したり、自作の連弾曲を友人達と弾いたりすることが無情の喜び。

これが後のシューベルティアーデ(シューベルトの集い)の原点となったと言っても良いかもしれません。フランツルが作曲家として世に出られたのも彼らの協力があったからこそ。

もちろんフランツル  は誠実でどちらかというと控え目な性格でしたが 、内に秘めた音楽への情熱が常にあの眼鏡越しの瞳に宿っていました。そんなところが数多くの友人に愛される 一因となったのかもしれません。

ほとばしる創作意欲に、教師達も「神よ。我々にフランツ・シューベルトをお授け下さったことを感謝します」と、言わしめたほどです。

サリエリも、彼の才能には驚きを隠せませんでしたが、モーツァルトやハイドンの曲想に似ているものに関しては、ことごとく何度も書き直しをさせ、彼を大層を悩ませた、と、言われています。

         でもそんな厳しい指導があったからこそ彼独特の音の世界観が生まれたのかもしれませんね。


ところが彼が15歳のある日、悲劇が訪れます。最愛の母,エリザベートの死。

病名はチフス。

かねがね兄弟達が彼を訪ねて来ては、母の具合が悪いことを伝えられていましたが、父テオドールは、彼を母親に会わせようとはしませんでした。

その頃のフランツルは音楽に没頭するあまり、学業がおろそかになり、

特に数学とラテン語は惨憺たるものでした。これが父親の逆鱗にふれ、二人の仲は険悪なものになっていました。


母の死に目に会えず嘆き悲しむフランツル。


そして 追い討ちをかけるかのように

 変声期を迎え聖歌隊はやむなく除籍になります。さらにその翌年16才の時には遂に数学で落第点をを取ってしまったため 、奨学金を受けられなくなってしまった彼は寄宿舎も去らなくてはならなくなりました。


父親との溝はますます深まるばかり。

五線紙すら買うお金の援助も絶たれてしまいます。窮地に陥るフランツル。

そんな時、寄宿舎時代の友人…シュパウン達が、精神面だけでなく経済的にもフランツルを援助し、そしてあのサリエリは何とその後も、彼が19歳になるまで無償でフランツルに作曲法を指導し続けました。

やはりサリエリは良き指導者だったのですね。


サリエリは 泉のように湧き出る彼の曲を 褒め称えるばかりでなく、

あまり立て続けに発表しないように…と忠告します。

まあ 楽曲が盗用をされるのを恐れていたのでしょう。ー

良き師弟愛を築きあげた二人でしたが、

「ドイツ語は野蛮な言語だ。それをを歌曲にするなんてとんでもない!」と

モーツァルトの時と同じく、二人は激しくぶつかり合います。


今回のお話はここまでですが、最後に当時の歴史的背景をチョットご紹介します。


 …1797年、フランツル  が誕生した年。ヨーロッパ制覇の野望を抱いていたナポレオンがその年の4月にオーストリア軍を破り、ウィーンに入城し、北イタリアの諸都市をオーストリアから解放。

そう言えばサリエリは北イタリア レニャーゴ の出身でしたね。

さらに勢いに乗ったナポレオンが1812年、60万人の大群を率いてロシアに遠征しますが、結果はご存知の通り冬将軍に立ち向かえず、退却を余儀なくされた歴史的な時代でもありました。



このような激動の時代に育ったフランツル。

彼の目にはこの時代がどのように映ったのでしょうか?


   

本日のオススメの曲は、シューベルトのピアノ連弾曲 へ短調。D 940「幻想」

 私がウィーンで始めてのコンサートでクラスメートと弾いた思い出の曲です。


えっ?    本日のスィーツですか?


ええ、母 エリザベートのお得意のマリレンクヌーデルです。

ジャガイモの生地に、あんずを包み込んだウィーンの暖かいお菓子です。

コロッケのように見えるのはローストしたパン粉をまぶしてあるからなのですよ。