シューベルト 2



宮廷礼拝堂聖歌隊を退学したフランツルは、父と再婚相手のアンナ・ クライアンベックの住む 実家に戻ります。 フランツルにとってはちょっと複雑な感情が湧いていたようです。だって、彼と年があまり違わない義母なんですから。ですから「お母様、」と、距離を置いた呼び方で接していたようです。


さて、フランツルを教師にさせたい父親は、彼を師範学校に入学させ、

 一年間の研修の後に父の学校の補助教員となりますが、当のフランツルの頭の中は、いつも音楽でいっぱい!     おのずと教師としての道も思うようにはいきませんでした。

(一説には兵役を逃れるため、と言われていますが、当時としてもかなり小柄な身長152cmの彼にとってはさほど心配することではなかったと思いますが。)


ただこの頃から彼は作曲活動においては充実した日々を過ごし始めていました。

フランツル 17歳の時、ミサ曲へ長調を作曲し、リヒテンタール教会で 彼自身の指揮で演奏。成功を収めます。この時ばかりはフランツルの父親も、息子の作品が初めて公の場で演奏されたことに 至極ご満悦だったようです。

ご存知の通りオーストリアはカソリックの国ですので、信者が集まる教会のために作曲することは、当時としては名声を得るための一番の近道でした。

勿論 フランツルも、モーツァルトやハイドン同様、教会音楽を多く作曲し、少しでも名を広めようと 努力を惜しみませんでした。

この時のミサ曲 へ長調(D105)のソプラノソロを歌ったのが、彼の初恋の人…と言われているテレーザ・グローブ。      実に魅力的な声の持ち主だったそうです。

そしてその3日後、彼は「糸を紡ぐグレートヒェン」(ゲーテの戯曲ファウスト第1部)を書き上げテレーザに渡します。

この曲が後に「ドイツリート」としての新しい様式を確立したと言われ、今までの古典主義のものとはまた違い、詩を更に高みに導く表現力豊かな歌曲の誕生でした。

またこのゲーテの詩には多くの作曲家達が「野ばら」同様 、曲をつけています。(ワーグナー、ヴェルディ  グリンカ等)お


さて、ここでちょっとフランツルの初恋のお話です。  音楽家…というとかなり情熱的、と思われますが、彼はかなり控えめのようでした。 まあ彼の情熱はどちらかと言うと音楽に注がれていた節がありますが…  。   そう、フランツルとテレーザは相思相愛でしたが、彼が定職につけなかったので 彼女の父親に二人の結婚を猛反対されます。

フランツル が19歳の時にはあのサリエリの推薦状を持って、ライバッハ(現スロヴェニア)にある学校の音楽教師に応募しますが、これも不合格。

こうなると、二人は結婚を諦めるしかありませんでした。

まあ 初恋は実らない、と言いますから。


その後 フランツル は作曲活動に邁進していきます。

そのお話をする前に時計の針を一年前、彼が18才の時にちょっと戻しましょう。フランツルはこの年までに、すでに140曲の歌曲を書き上げています。

その中でもゲーテの詩「魔王」に大変感銘を受け、友人達の前であっという間に曲(伴奏部も)を書き上げてしまいます。  この頃のゲーテは文壇において殿上人のような存在でしたので、彼に認められたいという芸術家達が大勢いました。

勿論若きフランツルも、そんな希望と夢を持っていたのではないでしょうか?


さて、お話をもとに戻しましょう

その後彼は実家を出て独立し、フリーの作曲家になります。経済力のない彼が作曲活動に没頭できたのも、彼の音楽を愛してやまない裕福な友人達や有力者達に支えられたからです。

そのような中、寄宿舎時代の友人シュパウンは、フランツル の作曲した「ゲーテ歌曲集」を丁重な手紙を添えてゲーテに送りますが,開封もされずに送り返されてしまいます。出版計画を立てていたシュパウン達の落胆は大きなものでした。

「何故だろう?」。     そう、何故だったのか色々と可能性を考えて見ました。

皆さんは、ゲーテの職業をご存知ですか?    ええもちろん、詩人、劇作家、小説家で知られていますがその他 自然科学者、政治家、法律家、と、実にオールマイティな御仁。毎日のように各分野の書類は届くは、彼に認められたいと願う作曲家達からは、山のように楽譜が届くは 、高名なゲーテに面会を求める人々は後を絶たないは… と、かなり多忙だったことは認めます。でも彼自身は音楽愛好家であっても、どちらかと言うと保守的で古典派音楽を好み、民謡調のものを好んだようです。こうしてみると、彼がシューベルトではなくウェルナーの野ばらを好んだ…と言うのも頷けます。さらに彼の親友で作曲家のツェルターの影響力が強かったため、フランツルのドイツリートは新しすぎたのでは…と、考え始めるときりがありません。


その後彼は 、シュパウンの紹介で裕福な貴族の息子のフランツ・フォン・ショーバーと知り合い、意気投合。    一年近く彼の家に住み、作曲三昧の日々を送り、

この時まで彼はリートを何と500曲、交響曲を5曲、そして弦楽四重奏も書き上げるという驚異的な力を発揮します。

そしてひょんなことからショーバーを介して当時ウィーン宮廷劇場の花形歌手だったヨハン・ミヒャエル・フォーグルを紹介されます。音楽界に多大な影響力を持つ彼がフランツル  のリートを歌うとなると、彼の歌曲は公の場で演奏される機会が増えて、音楽愛好家にも次第に人気が出てきます。

勿論フォーグルもフランツル の歌曲の虜になり、彼の音楽を広めるためには努力を惜しまなかったそうです。


またフランツルの後援者の一人、イグナーツ・フォン・ゾンライトナーも、自宅のホールで「シューベルティアーデ」(シューベルト  の音楽を楽しむ集い)を開き、これが徐々に口伝えに広がり、当時の音楽家、画家、歌手など 知識層の人々が集まるようになりました。ここでの集いが出発点となり、フランツルをゲストとしたシューベルティアーデは次々と誕生していきます。

彼らにとって、フランツル の新曲をきくのが何よりの楽しみで、当時はこのような高名な音楽家をサロンに招き  客を招待するのが富裕層のステータスだったようです。

その後彼の名が広まるにつれて「シューベルトのリートの楽譜が欲しい!」という一般愛好家からの要望が増えたため、友人達や後援者達が出版に着手しようとしましたが、経済観念に乏しいフランツルの家計の状態を考えると自費出版は難しいことが分かります。


それでもその計画が諦めきれない友人達は、出資者をつのって何とか出版にこぎ着けます。「魔王」「糸を紡ぐグレートヒェン」などはわずかな期間で上々の売り上げを果たしますが、フランツル  は、収入が入るとかなりの浪費を繰り返していたようですのでどうやらここから「シューベルト  =貧困」の図式ができあがってしまったようです。


それでもこのリートの神様(フランツル)にとっては、彼の残した言葉にあるように「音楽を愛する人は 決して不幸にはならない」という理念に基づいて 、さらに作曲の道を歩んでいきます。


しかし そんな彼に、病魔が襲いかかります。

自分自身に失望するフランツル。

それでも多くの友人達の愛情や手助けもあって、闘病中にも

彼のリートに対する命の炎は燃え続き、「冬の旅」「白鳥の歌」等、

つぎつぎと名曲を書き上げます。


が、彼は最後にはチフスに感染し、虚弱な彼にはその病魔と闘うすべもありませんでした。


1828年11月19日  ベートーヴェンを敬愛して止まなかったフランツルは兄弟に見守られる中、ローソクの火が静かに消えるように31才の生涯を閉じます。

奇しくも彼の死後3年経ってから、ゲーテはフランツルの「魔王」に大きな感銘を受けました。

 


彼の晩年の曲のひとつ 「冬の旅」の中の一曲「菩提樹」は、私達に何かを語りかけているような名曲です。





参考文献



Peter Haertling
  Roman.  Schubert
9 Zitate und 1Gedichte von Franz Schubert
Klassik Stiftung Weimar   Goethes Versaeumnisse
Journal of Royal society of Medicine.      Schubert and Salieri



















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宮廷礼拝堂聖歌隊を退学したフランツルは、父と再婚相手のアンナ・ クライアンベックの住む 実家に戻ります。 フランツルにとってはちょっと複雑な感情が湧いていたようです。だって、彼と年があまり違わない義母なんですから。ですから「お母様、」と、距離を置いた呼び方で接していたようです。


さて、フランツルを教師にさせたい父親は、彼を師範学校に入学させ、

 一年間の研修の後に父の学校の補助教員となりますが、当のフランツルの頭の中は、いつも音楽でいっぱい!     おのずと教師としての道も思うようにはいきませんでした。

(一説には兵役を逃れるため、と言われていますが、当時としてもかなり小柄な身長152cmの彼にとってはさほど心配することではなかったと思いますが。)


ただこの頃から彼は作曲活動においては充実した日々を過ごし始めていました。

フランツル 17歳の時、ミサ曲へ長調を作曲し、リヒテンタール教会で 彼自身の指揮で演奏。成功を収めます。この時ばかりはフランツルの父親も、息子の作品が初めて公の場で演奏されたことに 至極ご満悦だったようです。

ご存知の通りオーストリアはカソリックの国ですので、信者が集まる教会のために作曲することは、当時としては名声を得るための一番の近道でした。

勿論 フランツルも、モーツァルトやハイドン同様、教会音楽を多く作曲し、少しでも名を広めようと 努力を惜しみませんでした。

この時のミサ曲 へ長調(D105)のソプラノソロを歌ったのが、彼の初恋の人と言われているテレーザ・グローブ。      実に魅力的な声の持ち主だったそうです。

そしてその3日後、彼は「糸を紡ぐグレートヒェン」(ゲーテの戯曲ファウスト第1部)を書き上げテレーザに渡します。

この曲が後に「ドイツリート」としての新しい様式を確立したと言われ、今までの古典主義のものとはまた違い、詩を更に高みに導く表現力豊かな歌曲の誕生でした。

またこのゲーテの詩には多くの作曲家達が「野ばら」同様 、曲をつけています。(ワーグナー、ヴェルディ  グリンカ等)お


さて、ここでちょっとフランツルの初恋のお話です。  音楽家というとかなり情熱的、と思われますが、彼はかなり控えめのようでした。 まあ彼の情熱はどちらかと言うと音楽に注がれていた節がありますが…    そう、フランツルとテレーザは相思相愛でしたが、彼が定職につけなかったので 彼女の父親に二人の結婚を猛反対されます。

フランツル 19歳の時にはあのサリエリの推薦状を持って、ライバッハ(現スロヴェニア)にある学校の音楽教師に応募しますが、これも不合格。

こうなると、二人は結婚を諦めるしかありませんでした。

まあ 初恋は実らない、と言いますから。


その後 フランツル は作曲活動に邁進していきます。

そのお話をする前に時計の針を一年前、彼が18才の時にちょっと戻しましょう。フランツルはこの年までに、すでに140曲の歌曲を書き上げています。

その中でもゲーテの詩「魔王」に大変感銘を受け、友人達の前であっという間に曲(伴奏部も)を書き上げてしまいます。  この頃のゲーテは文壇において殿上人のような存在でしたので、彼に認められたいという芸術家達が大勢いました。

勿論若きフランツルも、そんな希望と夢を持っていたのではないでしょうか?


さて、お話をもとに戻しましょう

その後彼は実家を出て独立し、フリーの作曲家になります。経済力のない彼が作曲活動に没頭できたのも、彼の音楽を愛してやまない裕福な友人達や有力者達に支えられたからです。

そのような中、寄宿舎時代の友人シュパウンは、フランツル の作曲した「ゲーテ歌曲集」を丁重な手紙を添えてゲーテに送りますが,開封もされずに送り返されてしまいます。出版計画を立てていたシュパウン達の落胆は大きなものでした。

「何故だろう?」。     そう、何故だったのか色々と可能性を考えて見ました。

皆さんは、ゲーテの職業をご存知ですか?    ええもちろん、詩人、劇作家、小説家で知られていますがその他 自然科学者、政治家、法律家、と、実にオールマイティな御仁。毎日のように各分野の書類は届くは、彼に認められたいと願う作曲家達からは、山のように楽譜が届くは 、高名なゲーテに面会を求める人々は後を絶たないは と、かなり多忙だったことは認めます。でも彼自身は音楽愛好家であっても、どちらかと言うと保守的で古典派音楽を好み、民謡調のものを好んだようです。こうしてみると、彼がシューベルトではなくウェルナーの野ばらを好んだと言うのも頷けます。さらに彼の親友で作曲家のツェルターの影響力が強かったため、フランツルのドイツリートは新しすぎたのではと、考え始めるときりがありません。


その後彼は 、シュパウンの紹介で裕福な貴族の息子のフランツ・フォン・ショーバーと知り合い、意気投合。    一年近く彼の家に住み、作曲三昧の日々を送り、

この時まで彼はリートを何と500曲、交響曲を5曲、そして弦楽四重奏も書き上げるという驚異的な力を発揮します。

そしてひょんなことからショーバーを介して当時ウィーン宮廷劇場の花形歌手だったヨハン・ミヒャエル・フォーグルを紹介されます。音楽界に多大な影響力を持つ彼がフランツル  のリートを歌うとなると、彼の歌曲は公の場で演奏される機会が増えて、音楽愛好家にも次第に人気が出てきます。

勿論フォーグルもフランツル の歌曲の虜になり、彼の音楽を広めるためには努力を惜しまなかったそうです。


またフランツルの後援者の一人、イグナーツ・フォン・ゾンライトナーも、自宅のホールで「シューベルティアーデ」(シューベルト  の音楽を楽しむ集い)を開き、これが徐々に口伝えに広がり、当時の音楽家、画家、歌手など 知識層の人々が集まるようになりました。ここでの集いが出発点となり、フランツルをゲストとしたシューベルティアーデは次々と誕生していきます。

彼らにとって、フランツル の新曲をきくのが何よりの楽しみで、当時はこのような高名な音楽家をサロンに招き  客を招待するのが富裕層のステータスだったようです。

その後彼の名が広まるにつれて「シューベルトのリートの楽譜が欲しい!」という一般愛好家からの要望が増えたため、友人達や後援者達が出版に着手しようとしましたが、経済観念に乏しいフランツルの家計の状態を考えると自費出版は難しいことが分かります。


それでもその計画が諦めきれない友人達は、出資者をつのって何とか出版にこぎ着けます。「魔王」「糸を紡ぐグレートヒェン」などはわずかな期間で上々の売り上げを果たしますが、フランツル  は、収入が入るとかなりの浪費を繰り返していたようですのでどうやらここから「シューベルト  =貧困」の図式ができあがってしまったようです。


それでもこのリートの神様(フランツル)にとっては、彼の残した言葉にあるように「音楽を愛する人は 決して不幸にはならない」という理念に基づいて 、さらに作曲の道を歩んでいきます。


しかし そんな彼に、病魔が襲いかかります。

自分自身に失望するフランツル。

それでも多くの友人達の愛情や手助けもあって、闘病中にも

彼のリートに対する命の炎は燃え続き、「冬の旅」「白鳥の歌」等、

つぎつぎと名曲を書き上げます。


が、彼は最後にはチフスに感染し、虚弱な彼にはその病魔と闘うすべもありませんでした。


18281119  ベートーヴェンを敬愛して止まなかったフランツルは兄弟に見守られる中、ローソクの火が静かに消えるように31才の生涯を閉じます。

奇しくも彼の死後3年経ってから、ゲーテはフランツルの「魔王」に大きな感銘を受けました。

  


彼の晩年の曲のひとつ 「冬の旅」の中の一曲「菩提樹」は、私達に何かを語りかけているような名曲です。

























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ナポレオントルテ

コーヒーが好きだったナポレオン。
中はコーヒー味のクリームです